真言宗智山派 普通山 西福寺

新潟県長岡市にある真言宗智山派の寺院です。

真言宗智山派 普通山 西福寺

新着情報

ご挨拶

この度は、西福寺のホームページにアクセスしていただき、誠にありがとうございます。
また、日頃よりたくさんの方々の支えによって寺院活動が成り立っております。皆様のご理解とご協力に深く感謝申し上げます。
西福寺は、新潟県長岡市富島町にある真言宗智山派の寺院でございます。長岡市の中心部から少し離れた長閑な場所に位置しており、寺院の裏手には一面に水田地帯が広がっております。そこは、戊辰戦争にて河井継之助が長岡城の奪還成功の足掛かりとした八丁沖の戦いの舞台となった場所に当たります。
やすらかなる心を目指し、皆様のお気持ちに寄り添えように精一杯精進してまいります。仏事に関しましてお困りのことなどがございましたら、お気軽にご相談ください。
どうぞ、よろしくお願い致します。

沿革

建武三年(1336年)に室町幕府が成立した頃、足利の將、上杉憲房(?~1336)・憲顕(1306~68)親子は越後に入って、南朝党平定に奔走しました。建武四年、越後守護となった憲顕の家臣に大友右近太夫(一説に左近太夫)がおり、その一族の五百川縫殿介は、上杉憲顕に追従して飛島(現在の長岡市富島町)に至り、歴応4年(1341)に飛島城を築きました。その後、貞治三年(1364)、五百川縫殿介は名僧英典禅師を請じて、寶積院・阿弥陀院・不動院の三カ寺を開基して祈願所としました。
その後、飛島城主五百川縫殿介惟宗が謙信の重臣に加わり、春日山への移転を境として阿弥陀院・不動院・寶積院は次第に衰微しましたが、永禄二年(1559)、寶積院七世宥教が他二寺を合して復興に力を尽くして西福寺開基となりました。
延宝四年(1676年)には僧宥覚が、高野山本中院谷明王院より血脈相続にて住して明王院の事相末となり、更に教相を智積院末となって、現在に至ります。
一方、かつて富島の日光社付近には、西福寺が別当を務めていた薬師堂があり、そこには富島の地(飛島城)を治めていた五百川氏が護持していた五百川薬師などの諸尊像が祀られていました。戦後になり、日光社が火災のため焼失。薬師堂の建物を移築して日光社として復興した際に、堂内の阿弥陀如来、不動明王、日光菩薩、月光菩薩、観音菩薩、勢至菩薩、お賓頭盧様は西福寺へと遷座されました。
さらに、平成20年の日光社(旧薬師堂)改築に伴って、五百川薬師を飛島薬師と改めて西福寺地内に遷座することとなりました。その際に、日光社内に瓦解した十二神将、増長天、十八羅漢遊戯図があることが判明。それを機に、檀越は一致団結して諸尊像修復に当たりました。平成21年に無事に完了し、西福寺の本堂内にて大切に祀られております。

境内案内

境内につきまして、ご案内致します。

本堂

西福寺の本堂は度重なる火災に見舞われてきた歴史があり、その都度、住職と檀信徒様のご尽力で復興を遂げてきました。近年では、明治元年の戊辰戦争での兵火をはじめ、明治10年、昭和28年の火災で本堂を焼失しております。昭和28年の火災からの復興では、佐渡より寺院の古材を購入して再建を果たしました。現在の本堂は、平成12年に再建した建物になります。 過去の記録によりますと、明治4年に公立富島小学校が西福寺にて開校されました。その後、翌5年3月の新校舎完成まで本堂が校舎として利用されていました。

飛島観音

旧八丁沖を広く見渡せる本堂裏の墓地に、平成7年5月に建立されました。「飛島観音」という名前は、西福寺のある長岡市富島町一帯がかつて「飛島」と呼ばれていたことから由来しております。飛島観音の脚下は納骨堂となっており、たくさんの方々が静かに眠っておられます。

年間行事

アクセス

【お車でお越しの方】

<関東・北陸方面よりお越しの方> 関越自動車道長岡IC→国道8号線(新潟方面)→国道17号線(新潟方面)
→亀貝ICを降りて浦瀬方面へおよそ3分
<新潟市方面よりお越しの方>
北陸道中之島見附IC→国道17号線(長岡方面)→亀貝ICを降りて浦瀬方面へおよそ3分

【バスでお越しの方】

 JR長岡駅(東口5番線) 「長岡駅東口=小曽根=浦瀬=上見附車庫前線(新町経由)」に乗車→「富島」バス停にて下車
※乗車時間はおよそ20分程度、運賃は260円

真言宗智山派 西福寺
〒940-0881
新潟県長岡市富島町131番地
TEL :0258-24-5295
FAX :0258-24-4216